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 読売新聞 “史書を訪ねて”
 
奈良・興福寺塔頭、多聞院の英俊らが書き継いだ日記に残る松永久秀に関わる記事を考察しております。

2020年5月19日(火)夕刊に掲載の記事を紹介させて頂きます。

 
 


大東市役所前
三好長慶公・銅像


三好長慶イラスト
NHK大河ドラマ誘致推進協議会・制作


三好長慶肖像
大徳寺聚光院所蔵

三好長慶・足跡を訪ねて
関西・大阪21世紀協会レポート




史書を訪ねて

 多聞院日記    奈良・信貴山

 奈良盆地一帯を地元では「国中(くになか)」と呼ぶ。
ここは日本という国の揺籃(ようらん)の地。
その自負を感じさせる言葉だ。

 大阪、奈良の府県境にある信貴山の頂上に登ると、国中が一望できる。
戦国末期、大和を支配した松永久秀が最後を遂げた信貴山城があった。

 久秀の出自は、最近の研究によると、現在の大坂・高槻周辺とされるが、父親の名前も不明だ。
戦国武将、三好長慶に仕え、外交と軍事で頭角を現した。

 永禄2年(1559年)、大和に入り、興福寺や東大寺を見下ろす高台に多聞山城を築城、約15年間、実質的な支配者として君臨し、筒井順慶や三好三人衆らと攻防を繰り広げた。

 最晩年には織田信長に仕えるが、天正5年(1577年)、本願寺合戦で参陣していた大坂から突如退き、信貴山城に籠城。
信長軍の猛攻に敗れ、没した。 

 経歴とはよそに、久秀といえば、「戦国の梟雄
(きょうゆう)」で知られる。
世上に流布するイメージは次のようなものだ。
    
 「将軍、足利義輝を弑逆
(しいぎゃく)し、三好長慶の嫡子義興(よしおき)を殺害、東大寺の大仏殿を焼いた大悪人。
主君を次々と代え、最後は信長を裏切り、茶器、平蜘蛛
(ひらぐも)を道連れに、信貴山城の天守閣で爆死した」
   

 城があったとされる信貴山山頂から奈良盆地を望む。朝焼けが空を彩る。
 (奈良県平群町で、小型無人機から)=河村道浩氏撮影


 

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 「梟雄」松永久秀 創られた悪逆


 しかし、実際には、その悪名の多くが虚偽であるとされる。
足利義輝殺害は、久秀の子の久通の仕業で、久秀は無関係である可能性が高い。
三好義興は病死で、病状の悪化を心配する久秀の書状もある。
三好三人衆との戦いで大仏殿が焼けたのは事実だが、放火したというより、延焼が原因だったとされる。

 興福寺の塔頭、多聞院の英俊は、よほど久秀のことが嫌いと見え、「多聞院日記」で<悪逆><大業人(だいごうにん)
と罵倒する。
最後 について、大仏殿が焼けた時と同じように雨が降ったと「仏罰」を示唆するが、死に様は「腹を切って城を焼いた」
とするだけで、爆死とは一言も書いていない。
 爆死説は、悪役に派手な死に際をと、後世の文芸などで付け加えられたうそなのだ。

 最後に信長を裏切ったのは事実だ。
直前、信長は大和の支配を久秀の仇敵(きゅうてき)の筒井順慶に任せ、久秀が手塩にかけて築いた多聞山城を破却し安土
に移築させようとした。
自らが築き上げてきたものをすべて奪い取る信長の仕打ちに対する、70歳の久秀の無念はわからないでもない。

 信貴山の頂上近くに、聖徳太子ゆかりのの堂宇が広がる。
信貴山城とともに焼けたが、その後、豊臣秀頼が再建したと伝わる。
寺では、6年前から信貴山城の清掃や講演会などを通じ、久秀の復権を目指しており、野澤蜜孝法王(58)は、

「久秀は茶の湯をたしなむなど、文化を愛するいちめんもあった。実像はどうだったのか、見直していきたい」

と話す。

 最近、久秀の肖像画が新たに発見された。
その表情は穏やかな能吏に見え、荒々しい武将にはほど遠い。
外交上手で教養が深かったといわれる久秀。
本当の姿が今後の研究で明らかになるかもしれない。

 それもまた、歴史の醍醐味(だいごみ)だ。

(滝北岳)
 
 
 
 


多聞院日記

奈良・興福寺塔頭、多聞院の英俊らが書き継いだ日記。
46巻。
1478年から1618年の記録だが、欠けている年代も多い。
興福寺内外の情勢を中心に、大和、山城などの政治、社会、文化などを記している。
畿内を中心とした、戦国時代から江戸初期にいたる変革期を知る上で、きわめて価値が高い基礎資料とされる。


「多聞院日記」とその時代

1559年 松永久秀、三好長慶の命を受け、
      大和に侵攻
  62年 久秀、多聞山城を築城
  64年 三好長慶、死去
  66年 久秀、三好三人衆との戦いに敗れ、
      一時行方不明に
  67年 久秀、多聞山城に復帰。
     
 三好三人衆との戦いで、東大寺
      大仏殿が焼失
  71年 織田信長、比叡山を焼き打ち
  73年  久秀、信長に降伏
  76年 信長、安土城の築城を開始
  77年 信長から離反。
      信貴山城に籠城するが、自害
  
 

 

左写真:
奈良県王子町の達磨寺で
松永久秀のものと伝わる墓




【アクセス】
朝護孫子寺へはJR,近鉄の王子駅から奈良交通バス約20分、
西信貴ケーブル高安山駅からバス約10分。

信貴山城址には、同寺から山道を徒歩で約20分。

 
 
解く        

        
天野忠幸氏
天理大学准教授

 「仏罰」めいた自害の記述 

 「多聞院日記」の大部分を執筆したのが興福寺塔頭、多聞院の僧、英俊です。
この時代、興福寺は大和一国を支配していた頃とは比べものにならないが、大きな影響力を保ち続け、畿内一円から様々な情報がいち早く入ってきました。

それを小まめに書きためているのが特徴です。
不正確な情報は後で訂正しています。
史料としての信頼性が高く、これがなければ戦国期の大和の研究はできません。

 ただ、英俊も人間だから好き嫌いはあるし、僧侶としての立場もある。
よそから突然現れ、奈良の市街地を見下ろす高台に巨大な城を築いた、松永久秀には好感情はもっていませんでした。

 半年間も三好三人衆と市街戦を繰り広げ、大仏を焼く原因となったことも許せなかったのでしょう。
久秀が信貴山城で自害した時、英俊は「仏罰」めいた記述を残しています。


 久秀が悪く言われるのは、出世しすぎたこともあります。
出自も明らかでないのに、実に有能で、主君の三好長慶や将軍の足利義輝と同じ「従四位下(じゅしいげ)」という官位をもらった。

周囲からの嫉妬は並大抵ではなかったでしょう。
  
  


下記は今年3月5日読売新聞に公開された記事です。本ホームページでも公開させて頂きましたが、再度紹介します。天野先生もコメントされております。
  
 
 「官僚風」な松永久秀肖像画

                                                          2020年(令和2年)3月5日(木曜日)    
                                                           高槻市立しろあと歴史館    


 残忍なイメージ、評価見直し


 戦国時代に大和(現在の奈良県)などを勢力下においた武将・松永久秀(1577年没)の実像に近いとみられる肖像画が初めて見つかった、と高槻市が4日発表した。
 久秀は下剋上を象徴する残忍な人物として錦絵などに描かれてきたが、近年の研究では評価が見直されており、高槻市は「実直そうに描かれた肖像画は貴重な史料になる」としている。                                                    (阿部健)

 

 
公開された松永久秀の肖像画
(高槻市で)

 高槻市立しろあと歴史館が昨年1月に入手した、松永久秀肖像画

 上部に久秀の戒名と命日が記された掛け軸(縦108㌢、横43㌢)に、侍烏帽子(えぼし)をかぶって座した、室町時代の典型的な武家肖像画が描かれている。

 唇が厚く、前歯が出るなど個性的な顔立ちで、脚色せずに久秀を忠実に描いた可能性が高いいう。

 筆致などから久秀の死の直後に描かれた原画を江戸時代に模写したものとみられる。

 久秀は現在の高槻市東五百住
(ひがしよすみ)町の出身とされ、戦国大名・三好長慶の本拠だった高槻の芥川城で要職を担い、奈良との府県境に近い信貴山城の城主となって勢力を伸ばした。

 一時同盟関係にあった織田信長と敵対し、信長の軍勢に攻められて信貴山城で切腹した。

 江戸時代の軍記物などでは、長慶の嫡男や足利将軍を暗殺したと書かれ、残忍で勇猛な「戦国の梟雄(きょうゆう)
と呼ばれている。

 東大寺大仏殿を焼いたとされていたが、戦火が延焼したと見られるなど、近年の研究で久秀の逸話は創作された可能性が高いことが判明した。

 これまで、久秀の絵は悪人をイメージして後世に描かれた錦絵や浮世絵しか確認されていなかった。

 歴史館は3月17日から、5月10日まで肖像画を展示する。



天理大の天野忠幸准教授(日本中世史)の話

 「本来の久秀は、主君に忠節を尽くす優秀な官僚タイプで、肖像画はそのイメージが出ている。
等身大の久秀像が広まるきっかけになり、貴重な発見だ」

 














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