三好芥川城の会

 戦国時代「終わりの始まり」 

  
教科書が教えない 幻の堺幕府 【六】

 京都を逃れていた室町幕府の実力者、管領の細川高国を亡き者にしたことで、足利義維(よしつな)をトップ、細川晴元をナンバー2とする堺の政権は安泰になったかと思われた。
 だが、軍司令部を務め、政権を実質的に取り仕切る三好元長は、畿内の有力武将から妬
(ねた)まれ、武将らの讒言(ざんげん)を鵜呑みにした晴元からも危険視された。

 ほとんど孤立状態に陥った元長は味方の裏切りに遭い、壮絶な最期を遂げる。
その死により「堺幕府」は終焉するが、同時に織田信長や豊臣秀吉、徳川家康といった天下人の時代の幕開けとなった。
                                            (古野英明)


 
乱世彩った三好一族の興亡





 ■孤立

 細川晴元に疎まれ、三好家の本拠地・阿波(徳島県)に一旦戻っていた元長は、室町幕府方との戦いのため再び呼び戻されると、享禄4(1531)年6月、管領・細川高国を大物(だいもつ)(兵庫県尼崎市)の戦いで破り、切腹に追い込んだ。

 その後、元長は「堺幕府」の中枢に戻ったが、いったん緩んだ政権の結束はもはや元には戻らなかった。


三好元長画像
(板東広隆氏所蔵)
 16世紀前半の畿内の戦乱を描いた軍記物「細川両家記」によると、河内(大阪府東部)の木沢長政、摂津(大阪府北中部の大半と兵庫県南東部)の茨木長隆に加え、元長と同族の三好政長が元長に反目。

 木沢長政らは、高国によって暗殺された柳本賢治同様、晴元に元長の悪口を吹き込んだ。
さらに天文元(1532)年3月、晴元と元長の間に入って仲をとりなしていた阿波守護・細川持高(もちたか)が地元に帰ってしまうと、元長は完全に孤立してしまう。

 この頃、晴元は茨木長隆の進言により、元長につながる足利義維に見切りをつけ、近江(滋賀県)に亡命している室町幕府将軍・足利義晴との連携を模索。
細川高国亡き後、適当な管領候補がいないことから、自らが管領におさまり、室町幕府を再興しようという腹だった。

 さらに茨木長隆が縁者を通じて一向宗門徒と手を結ぶことに成功し、風雲急を告げる情勢となった。


家族

 元長は晴元と争う覚悟を決めた。
一時は優勢となったが、晴元に加勢した一向一揆の軍勢に押され、主力を失っていく。

 同年6月、10万余に膨れ上がった一向一揆が堺に向かっていた。
「細川両家記」は6月19日夕のできごととして、元長が妻を呼び出し、「この戦いで腹を切ることになるやもしれぬ。そなたは嫡子千熊丸を連れて阿波へ下れ」と命じ、船で阿波へ逃したと記している。
千熊丸とは後の三好長慶のことである。

 翌6月20日、一向一揆の軍勢がなだれを打って元長が立てこもる顕本寺に殺到。
堺の町は中立の立場をとり、一揆の乱入に抵抗しなかった。

 「もはやこれまで」。
 元長は短刀を手にとった。

毎年、堺の顕本寺で営まれている元長忌

 顕本寺(堺市堺区)の菅原善隆住職によると、元長の切腹は腹を横に一文字に切った後、縦に切り裂く「十文字腹」で、「よほど悔しかったのでしょう、自らの臓物を取り出し天井に投げつけたと伝わっています。当時の寺の天井にはその血の跡が残っていたそうです」。

 阿波の武士のら70余人も元長に続いて腹を切り、顕本寺は血の海となった。

 堺公方の足利義維も御座所の引接寺から駆け付け、切腹しようとしたが、晴元が送り込んだ家臣により短刀を奪われ、連れ戻されたという。

 こうやって「堺幕府」は元長の死をもって終わりを告げた。
その象徴的事件について、京都の公家・鷲尾隆康は自身の日記「二水記」に、「天下は一揆の世たるべし」と記している。







 ■遺志

 元長の墓がある顕本寺では毎年6月に、元長の霊を慰める「元長忌」が営まれており、今年は6月21日に予定されている。

 菅原住職は秋に行われる「堺まつり」で元長に扮して武者行列に参加したこともある。

 「元長が残した功績は大きい。自身は無念の死を遂げましたが、その遺志は長慶ら子供たちに受け継がれました」と菅原住職。

 元長の死後、義維は淡路(兵庫県淡路島)へ逃れ、晴元は思惑通り、管領におさまる。
 だが、三好家の勢力を再興した長慶が天文18(1549)年、晴元を京都から追放、織田信長より早く中央政権を握ることになった。
同時に管領が実権を握る体制も崩壊した。

 之長、元長、長慶と続く三好一族の活躍は、戦国時代終わりの始まりを招いた。
 やがて天下人の時代へと続くことになる。(完)


堺の歴史を顕彰する
堺まつりの武者行列
にも登場する
三好元長
古野英明
大阪新聞報道部、産経新聞大阪本社文化部などを経て平成30年10月から堺支局長。
堺はびっくりするような歴史の宝庫で、少し歩けば歴史上のビッグネームゆかりの史跡に行き当たる。
歴史好きにはたまらないまちだと幸せを感じながら日々取材に駆け回っている。

昨夏、徳川家康が大坂夏の陣の際、堺で討ち死にしたとする伝説を取材、今回も教科書に載っていない「異説」に挑戦したが、史跡や史料が少なく、苦労の連続だった。
   
幻の堺幕府 古野はこう思う
堺に「幕府」あったとしか・・・・・

 室町時代後期の約5年間、堺に幕府が存在していた―。
歴史の教科書に載っていない「堺幕府」について、6回にわたって紹介してきた。

 堺幕府論は昭和48年、歴史学者の今谷明氏が初めて唱えた。
今谷氏は、朝廷による大永から享禄への改元を無視した公文書が、京都に残されていたことに着目。
当時の公文書発給状況をつぶさに分析し、当時の政権が崩壊状態にあり、「堺公方」と呼ばれる足利義維(よしつな)が事実上の将軍で、堺幕府であると―と論じた。

 これに対し、「朝廷から征夷大将軍の宣下(せんげ)を受けた武将が開設した政庁が幕府であり、それがなければ幕府ではない」との反論がある。
義維側にどれほど実力があろうとも、幕府とはいえない、というわけだ。

 だが、これまでみてきたように、堺の政権には義維の他に細川晴元という管領にあたる人物がおり、強大な軍事力を有する三好元長らが畿内をほぼ制圧。
一方で京都は将軍も管領も主だった官僚もいないもぬけの殻で、幕府の機能をはたしていなかった。
こうした事実を追うと、堺に事実上の幕府が機能していたことは疑う余地がない。
さらに元長の遺志を継いだ嫡男・長慶の活躍によって室町幕府は一層弱体化し、長慶は室町幕府の将軍を追放。
「将軍」「管領」を担いで失敗した父・元長の教訓からか、今度は将軍を擁立せず、自らが権力を掌握して“天下人”となった。

 堺幕府は応仁の乱をもって幕開けした戦国時代の「終わりの始まり」であり、後の織田信長による天下統一へとつながっていくのである。

 「堺幕府」をめぐる論争は今も決着を見ていない。
戦国時代終焉の基礎を作ったともいえる元長の功績をどう評価していくのかも含め、今後の論争の行方に注目したい。
  
 








に戻る 
ページTOPに戻る