三好芥川城の会

将軍の御座所いずこに 

  
教科書が教えない 幻の堺幕府 【弐】

 室町時代後期、堺には幻の中央政権「堺幕府」が存在した・・・・。
大永7(1527)年、応仁の乱以降の混乱が続く畿内で、将軍・足利義晴と管領・細川高国の軍勢が京都を後に敗走した。
幕府軍を破ったのは義晴の兄弟である足利義維
(よしつな)と高国の義理の甥の細川晴元、そして阿波の武将、三好元長。
 一行は阿波から海路で入った堺に拠点を置き、そこに事実上の幕府が成立する運びとなったが、さてその堺幕府の本拠は一体どこにあったのだろうか。         (古野英明)


 
度重なる戦火 記録少なく


 堺の街はこれまで度重な火災や戦災などで焼けたため、明確に所在地を記した記録などはほとんど残っておらず、謎のベールに包まれている。

 そんな中、「堺幕府終焉の地」とされる顕本寺に本拠が置かれていたとする説がある。

 ■元長ゆかり

 顕本寺の菅原善隆(ぜんりゅう)住職によると、当時の武将は寺に滞在することが多く、大永7(1527)年に堺へと上陸した元長は、堺で力を持つ町衆の信者が多い法華宗の顕本寺に居を構えたとされる。

まだともに10代だった若年の義維と晴元を、20代の年長者の元長がリードしていたことから、「顕本寺=幕府説」となったのだろう。
 

開口神社境内にある
三好元長戦死跡
 


 
三好元長ゆかりの顕本寺本堂
 



 

住吉大社の御旅所である宿院頓宮。
住吉大社のご祭神・筒男三神と神功皇后を祭る。
ここより海側に引接寺があったとされる = 堺市堺区
 
 顕本寺は現在、堺市堺区宿院町東にあるが、元和元(1615)年の大坂夏の陣で街全体が焼けた後の移転先であり、室町時代には開口(あぐち)神社(同区甲斐町東)の付近にあったと伝わる。
ちなみに同神社境内の片隅には、元長が自害した跡であることを示す石碑「三好元長戦士跡」(昭和35年、堺市建立)も立つ。

 だが、元長が実質的に政権を取り仕切っていたとはいえ、軍司令官にすぎない。
将軍義維の住んだ御座所こそ「幕府」である―ということで、顕本寺説は近年、否定的にとらえられている。
 菅原住職も「残念ながら、幕府の所在地は当寺ではなかったようです」と話す。


 ■有力な引接寺

 では、義維はどこに住んでいたのか。
堺市博物館の元学芸員、吉田豊さんによると、当時の文献に散見される義維に関する記述をたどった結果、「四条道場」と呼ばれていた引接寺(いんじょうじ)(現在は廃寺)が有力だという。
  16世紀前半の畿内の戦乱を描いた軍記物「細川両家記」には、堺幕府が崩壊した天文元(1532)年6月の出来事として「御所様(義維)も四条の寺より顕本寺へ御成有りけれども・・・・」という記述がある。

 四条の寺とは本来、 京都・四条京極付近にあった時宗四条派の本山・金蓮寺の別称、四条道場のことを指す。
室町幕府の帰依を受けて栄えたという足利将軍家ゆかりの寺で、同派の最有力寺院である堺の引接寺だけは本山と同じ「四条道場」を名乗ることを許されたという。
こうしたことから、細川両家記に残る「四条の寺」は引接寺を指すと考えられている。

 現在、引接寺跡を示す観光案内板が堺区少林寺町東の少林寺小学校前に掲げられているが、当時はもっと北側にあったようだ。
 吉田さんによると、住吉大社の御旅所(おたびじょ)・宿院頓宮(同区宿院町東)近くにあったと推測される。

 昭和5年に発行された「堺市史」(第7巻)にも、引接寺が現在の堺区宿院町西あたりに広大な境内地を有している―と記されている。


 ■顕本寺周辺?

 義維の御座所であった引接寺は、元長が居を構えていたとされる顕本寺からは歩いて数分という至近距離にあった。
吉田さんは「政治の実務を行う行政官らが詰める政庁のような施設も両寺の近くにあったと思われます。このエリアが政権の中枢であったと言ってもいいでしょう」と話す。

 一方、「堺幕府の管領、晴元の陣所については、現存している史料に手がかりとなるような情報がほとんどなく、不明だ。

 吉田さんは「主要人物が離れて住むとは考えにくく、晴元も引接寺周辺に住んでいたのではないでしょうか」という。

 ところで、軍事を担う元長の拠点については、もう一つ重要な施設があったと考えられている。

 堺の街の中心部から外れ、環濠の北端あたりにあったとされる「海船政所(かいせんまんどころ)」だ。
 「政所」というからには、普通は「政治を執り行う場所」であると考えるべきところだが、実際はどんな施設だったのだろうか。

 訪ねてみることにしたい!





に戻る 
ページTOPに戻る