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三好芥川城の会




三 好 四 兄 弟

 

 201812月1日()1330、いいもりプラザにて、天理大学准教授天野忠幸さんによる、戦国武将、三好長慶四兄弟についての、講演がありましたので、その概要をお知らせします。

大東 三好長慶会が主催され、三好芥川城の会より大和会長以下、5名が参加しました。

 

 

天理大学准教授

大東市、大東歴史の伝道師

1976年神戸市生まれ。大阪市立大学大学院後期博士課程修了。文学博士。

関西大学、大阪市立大学、奈良県立医科大学などの非常勤講師を経て、現在、

天理大学文学部准教授

 

 江戸時代、正徳4(1714)大坂夏の陣の約100年後、香西成資が著した『南海治乱記』の中で次のように記されている。

 

三好長慶の兄弟たちは、皆それぞれ器が揃って名将である。

長兄の三好長慶は、智謀勇才を兼ね備えて天下を制すべき器であった。

次兄の三好実休は、豊前入道実休と号し、国家を謀るべき謀將であった。

三男の安宅冬康は、国家を懐くべき仁將であった。

末弟の十河一存(かずまさ)は、十河左衛門と号し、大敵おも挫く勇将であった。 

 

 著者は特に、安宅冬康を乱世にあって、忙しい合間にも書を離さず勉学にいそしみ、道義を守って人徳のある、またやさしさを兼ねそなえた人だったとたたえています。

 

 これから述べる、長慶を取り巻く家族関係は、戦国時代、子が親を追放し、弟が兄を排斥するというような事態が頻繁に行なわれた時代であり、三好一族にとっても、この時代をたくましく生き抜く為に、政略結婚と養子縁組の戦略を巧みに駆使したものでありました。

1.長慶の父母、そして妻、息子

〇 父・三好元長 

幼名:千熊 千熊丸は三好家の後継者の名前で、長男の三好長慶、そして義興も千熊丸を名のった。

以後、元長は、出家して開運を名のった。官職は筑前守

 

 三好元長は『堺幕府』の立役者であった。

大永6(1526)から天文元年(1532)の間、元長は波多野氏の調略、足利義維(よしつな)細川晴元を擁して堺へ渡海、上洛して幕府の要職を締めたが、天文元年(1532)細川晴元、本願寺証如等が率いる一向一揆に攻められ、堺顕本寺で自害した。

長慶11才の時であり、長慶は阿波に下国して三好家再興を期す事となる。

 

〇 母・明室保公大姉(ほこうだいし) この名は戒名 

 

三好長慶

幼名:千熊、以後、孫次郎、利長、範長、長慶、伯陽軒。官職は筑前守

 

 天文8(1539) 18才で上洛し細川晴元を招宴、父の敵でありながら主君として仕えている。織田信秀より鷹を下賜され、能で返礼した。

62日河内17ヶ所の代官職の裁許を足利義晴に上申、8月に越水城に入場し、摂津の代官(副知事に相当する)となった。

その最中、614日に母が死去、623日に本願寺証如(しょうじょ)より香典が届いた

との記録あり。

 

〇 最初の妻・波多野秀忠の娘 波多野秀忠は丹波の国の守護代であった。 

 

 天文9年(1540)1215日、波多野秀忠の娘と祝言をあげた。

長慶はこの頃、「利長」から、「範長」に改名、天文15(1546)後半、長慶25才の時に「筑前の守」に任ぜられた。

 天文16(1547)7月、25才、「範長」から「長慶」に改名

 

〇 二人目の妻・遊佐長教(ながのり)の娘

 

 天文18(1549)510日、河内守護代の遊佐長教(ながのり)の娘(養女?)と祝言を挙げた。波多野秀忠の娘とは離縁、政略結婚であった。624日、江口の戦いで、三好宗三を討ち挙兵、上洛した。長慶28才の時であった。

 長慶との和睦を破った足利義輝を追放し、芥川孫十郎を攻め、攻略した長慶は、

天文22(1553)825日、32才、芥川城に入城し居城とした。

 

〇 嫡子・三好義興(孫次郎→義長→義興 筑前の守) 
     義の字は足利将軍の通字から
貰ったもので、細川・伊達・上杉・毛利より格上である。

 

 母は、長慶の最初の妻、波多野秀忠の娘、義興は結婚したが妻は不明

松永久秀を後見として、将軍義輝との協調路線、永禄5(1562)教興寺の戦いの後

義興に改名(義興21)

 

 長慶は永禄31024日、39才、飯盛山城を攻略し、戦乱が続いた中で、ひとまずの平安を見て、113日大徳寺大仙院に河内平定を伝え、
永禄3(1560)1113日、芥川城を義興に譲り、河内飯盛山城に移り、居城とした。

 

 義興は

永禄6(1563)6月、病床に伏せ、名医の治療、祇園社・吉田兼右や勅許による平癒祈願も虚しく、825日、22才で死去した。

1115日葬礼が行われた。仏事は大徳寺と五山が勤めたが「未聞の沙汰」との記録あり壮大なものであった事が伺える。

 

〇 次嫡子・三好義継 義興の死後、十河一存の嫡男を養子として長慶の後継となる。

妻は足利義晴の娘、兄義興に同じく、足利将軍の義の字を貰っている。

 

永禄7(1564)122日、三好義継が上洛し、足利義輝に新年を祝賀する。

    同年622日、再度上洛を果たし、長慶の後継となる備えを進める。

永禄7(1564)74日、三好長慶、飯盛城にて死去、43才であった。

永禄8(1565)519日、三好長逸、松永久通らと足利義輝を討つ。

永禄96月以降、河内真観寺(八尾市)で長慶の葬礼、大徳寺聚光院の建設に着手、 

   堺南宗寺で3回忌を行なう。

元亀2(1571)堺南宗寺で、長慶の7回忌を行なう。

 

2. 長慶を支えた兄弟

〇 長弟・三好実休(千満丸―彦次郎―之相(ゆきすけ)―之虎(ゆきとら)―実休、

         豊前守)

 

 阿波・讃岐・伊予東部・河内南部の支配を担当、

長慶・義興の三好本宗家に対して独立性の強い「阿波三好家」を創設、吉野川流域の領主など譜代を父元長より継承した。

たびたび阿波より渡海し、京都・播磨・河内攻めで活躍した。

 茶湯の達人で、硬骨な千利休の弟子である山上宗二より、実休は武士では唯一の名茶人と称えられた。
実休の名器のコレクションは信長に収集されたが、ほとんどは本能寺の変で焼失した。

永禄5(1562)35日、長慶が41才の時、和泉久米田の戦いで畠山高政・根来衆に敗れて討ち死にした。
この時期、三好長慶は飯盛城に籠城という最大の危機を経験した。

 

〇 次弟・安宅冬康(千々世―鴨冬(かもふゆ)、摂津の守)

 

 淡路の洲本・由良を根拠とする安宅水軍を継承、淡路島一円の水軍を統一した。

長慶が支配する兵庫津・尼崎・堺・榎並(えなみ)など港を支配して活動した。

和歌の名人で、長慶と共に多くの名歌を残している。

永禄5(1562)以降、岸和田城に在番、翌年には松永久秀援軍のため、大和へ出兵した。

 永禄7(1564)59日、長慶(43才時)によって飯盛城にて殺害された。

長慶と冬康は気脈を通じた兄弟であったが、松永久秀()の讒言などもあり、長慶の後継、三好義継を守るための高度な政治的問題であった。

以後、安宅氏は豊臣秀吉により、播磨明石郡の内陸部に移封されることとなった。

 

〇 三弟・十河一存(そごうかずまさ)(孫六郎 → 一存、民部太夫)

 

 讃岐の十河氏を継承、「鬼十河」などと称され、武勇に名高く逸話も多く残っている。

天文18(1549)頃、前関白九条種通(たねみち)の養女と結婚、

永禄元年(1558)以前に、岸和田城に入城、根来寺への備えを固めた。

 以後、大阪城を尼崎藩と共に、軍事的に支える岸和田藩を設置、岸和田は堺を除く

和泉の国最大の都市へ発展した。

 永禄4(1561)423日死去、長慶は飯盛城にて飯盛千句を催し、一存を鎮魂した。

以上   

 

2018.12.10 

三好芥川城の会

文責 松浦正徳

 


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