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三好芥川城の会


2019年9月15日発表

信長に先んじた天下人
三 好 長 慶
NHK大河ドラマに
 
NHK大河ドラマ誘致推進協議会・作成



  右図:三好長慶イラストは新潟県在住のヤマザキミコ氏に描いていただきました。

 ヤマザキ氏は日本イラストレーター協会主催の「イラストレーター・オブ・ザ・イヤー2017」において最優秀商品イラスト賞を受賞されるなど、今後の活躍が期待されているイラストレーターです。
 
 大河ドラマ誘致推進協議会は、このパンフレットを活用して、今後さらなる活動の活性化を図って参ります。
 

織田信長に先駆けた天下人NHK大河ドラマに!
 
  天下を治めた武将・三好長慶
 数多くの武将が活躍した戦国時代、
知勇兼備の将・剛勇無双の士などと呼ばれた人物は数多く存在します。
武田信玄、伊達政宗、真田幸村(信繁)らの名はよく知られていますが、彼らは「天下を治めた武将」ではありません。

しかし、織田信長に先駆けること20年、天下(当時は京都とその周辺五畿内を指していた)を静謐(せいひつ)に導いた人物が存在します。
 その人物こそ【三好長慶】です。

 三好長慶は、阿波(徳島県)出身の戦国武将で、最盛期には四国と畿内に13ヶ国にまたがる領地を有していました。
しかし、そこまでの道のりは決して平坦なものではありませんでした。
三好家は元来、阿波細川家の一家臣に過ぎない立場です。
長慶の父・三好元長は、主君・細川晴元を支えるため畿内で活躍しましたが、その力を晴元に疎(
うと)まれ非業の死を遂げます。
 



三好元長画像
(板東広隆氏所蔵) 
   父の死によって長慶は若干11歳で三好家の家督を継承しました。
父の仇である晴元に家臣として仕え、兄弟とともに幾多の戦場をくぐり抜け、やがて晴元や晴元と結んでいた将軍義輝をも凌ぐ権勢を手中にします。

 三好長慶はまさに室町時代の秩序や権威そのものに果敢に挑戦し、【天下を治めた武将】と認められた人物なのです。
 

  見直される人物像



 

高槻市・霊松寺本殿
正親町天皇の勅願所だった
   これまで三好長慶の評価は、決して高くありませんでした。
今までは「鬱病を患い、松永久秀に操られた暗愚な大名」などのマイナスイメージが定着していましたが、それらのイメージはいずれも江戸時代に作られた創作物を根拠としており、事実とは異なっていることが近年明らかになりました。
 現在は戦国時代の一次史料を中心に研究が進み、それまでとは全く違った【時代の先駆者としての三好長慶】の姿が浮かび上がってきました。

 長慶の革新性を現す事柄のひとつが、足利将軍を擁立せずに自らが「京都御静謐(ごせいひつ)」を志向し、都を含めた畿内を治めた事です。
 
  実力者といえども、足利将軍を擁立して権力を握る事が当たり前の時代においては、画期的な考え方でした。
その結果、正親町(
おおぎまち)天皇より武家の代表と認められ、将軍と同様に改元の執奏(しっそう)を行うまでになりました。
これは細川家の家臣という三好長慶の地位を考えると、極めて異例であり、かつ室町時代の終焉の起こりと位置づけられるでしょう。
この十数年後には、織田信長が同じことを行いますが、すでに三好長慶が信長に先んじておこなっていたのです。

 長慶の教養と信仰


 三好長慶は戦や政治だけでなく、連歌に代表される教養を身に付けた武将でした。
後に編纂された『集外三十六歌仙』にも名を連ねている事から、歌に精通した人物として高く評価されていた事がわかります。
複数人で和歌の上句と下句を付合う連歌は当時、内裏や公家、武家・宗教者・町人などの幅広い階層で行われる、とても人気のある歌事でした。
三好長慶は連歌の上手であるとともに、連歌を通して分け隔てなく様々な人たちと交わることが出来る器の広い人物だったのです。

 また長慶は、禅宗や法華宗などの仏教寺院を保護する一方、新興の宗教であるキリスト教の布教を認めるなど、家臣や領民の個々の信仰を尊重する姿勢を取っています。
これらのことから長慶は、現代における信教の自由と相通じる考え方を持っていた武将であることもうかがえるのです。
 


顕本寺本堂

 堺市堺区宿院町東。元は同区甲斐町東にあったとされる。
宝徳3(1451)年、法華宗再興に尽力した日隆聖人が創建。

 一向宗門徒の大群に囲まれた元長がこの寺で自刃したことで堺幕府は崩壊しました。

長慶の父、元長の終焉の地

 兄弟の結束、四国と関西の深い繋がり

 三好長慶は出身地の徳島県や香川県をはじめ、関西の広い範囲で活躍しました。
居城は兵庫県の越水城(西宮市)を畿内進出の足がかりにし、大阪府高槻市の芥川山城、そして飯盛城(大東市・四条畷市)へと移していきました。
これは信長が居城を移すことに先駆けています。

 さらに大阪府には三好実休(
じっきゅう)の高屋城(羽曳野市)と十河一存(かずまさ)の岸和田城、淡路島には安宅冬康(あたぎふゆやす)の洲本城(洲本市)、奈良市には重臣・松永久秀の多聞城(たもんじょう)があります。
京都市には長慶の墓所のある大徳寺聚光院、堺市には長慶が元長を弔うために建立した南宗寺や元長の墓所がある顕本寺があります。

 また、長慶のライバルたちの足跡が滋賀県・和歌山県などにも及んでいます。
このように関西の各地にゆかりの史跡が点在していることから、三好長慶は、【関西を代表する戦国武将】と言えるでしょう。
  
 



奈良市・ 多聞城 想像図

  多聞城は松永久秀の居城です。
 信長はこの城の見事さに嫉妬し、そして安土城は、この城をモデルにしました。
 現在、遺構はほとんど残っていませんが、本丸跡にある若草中学校の正門付近に石碑が建てられています。



三好長慶肖像
大徳寺聚光院所蔵
  いまこそ三好長慶に注目


 父の死、兄弟の絆、主君や将軍との対決、そして天下静謐。
三好長慶の生涯は、壮大なドラマのような魅力溢れるものです。
激動の時代において、新しい道を切り拓いた彼の業績は、現代の私達にも大きな知恵と勇気を与えてくれるのではないでしょうか。

 知れば知るほど引き込まれていく三好長慶の物語。
そんな長慶は令和4(2022)年には生誕500年を迎えます。

平成から令和へ、新たな時代を進む現代において、いにしえの戦国時代を終焉に導く礎を築いた【天下を治めた武将】である三好長慶に、いまこそ注目すべき時なのです。













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